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聞えないといふしるしに、房一は手を振つて見せた。それが盛子にも解りにくいらしく、しばらくためらひ気味に立つていたが、やがて河原へ下る段を降りはじめた。
と、声をかけたが、返事がなかつた。間を置いて、今度は高い声を出すと、しばらくたつて、横手の襖ふすまが殆ど音を立てない位にそつと開いて、半白の頭を円坊主にした、痩せて黄ばんだ皮膚の五十がらみの男が、きよろりと驚いた眼をして、口を半ば開けたまゝのぞくやうに現はれて来た。
と、盛子は声をかけて、その方へ向いて近づきながら、だが、そこに房一とは違ふ男の顔がうす暗がりの中で何だかためらひ気味に、中へ入りもしないで口をもごもごさせて突立つているのを見た。が、その顔は急に突拍子もない大きな声を出した。
房一は急いで膿盆をひきよせた。
「ふうん、潰れるだらうな」
房一は彼等の姿が消えてからもしばらくの間、ぼんやり元の椅子に腰をかけて、たつた今彼等がそこを曲つて行つた入口の土塀、それで一所だけ区切られた表の道路、その向ふに稍高手になつた畑地、といつたやうな物を漠然と眺めていた。
「そんなこと位は造作もない。おれにとつては小指の先の芸当だ」
山腹の中ほどの曲角で房一は立ちどまつて汗をふいた。今ではもう真下にひろがつて見える桑畑の外れにぐつと落ちこんだあたりを曲りながら流れる川の水流がぎらついていた。その下手に、河原町のいろんな形の屋根がかたまり、とぎれ、又つゞいていた。このあたりは子供の時分に遠走りに遊び歩いて来たことがある位で、房一には殆ど縁のない場所だつた。殆ど二十年ぶりだらう、そこに立つて様子の変つた河原町を眺めていると、房一は何とはなしにゆるい感動の湧いて来るのを覚えた。こゝで見る河原町はその小粒の屋根のせいか、手にとつて楽しむことができさうに、何だかなつかしかつた。そのなつかしい何ものかは、彼の記憶の遠くに彼の存在の奥深くにつながつていた。しかも、今彼自身は以前には思ひもかけなかつた河原町の医者としてこゝに立つている。
「三人どころぢやない、五人も十人もある」
思はず口に出かゝつたが、慌ててのみこんだ。彼の頭には今やすべてが明かになつた。土工仲間の刃傷沙汰だつた。その息づまるやうな情景が頭に閃ひらめいた。
冷笑するやうな「それは御苦労」と云ふ色が庄谷の眼に現はれたきりで、後は何とも云はない。恐らくそれが彼のふだんの表情であると思はれる、さつき手を額にかざして房一を眺めていたときと同じやうな、横柄な、何か固い糊づけしたやうなものが庄谷の顔にあつた。それは面を被つたみたいに庄谷の顔をくるんでいて、いや顔だけではない、庄谷そのものもすつかりその固いものの背後にかくれてしまつたやうに見えた。
その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもとを知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。また男女という想像の由よって来るところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗のぞいて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子ガラス戸を開けて見るのである。しかし案の定なんにもいない。
と、房一は小谷に向つて訊いた。