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「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
徳次は身体中からこみ上げて来る悦よろこばしさのためにさうなつたかの如く、思ひ切り伸び上るやうにして答へた。だが、それも向ふにはよく聞きとれなかつたらしい。房一は川向ふで手をふつた。下手の方を指さした。徳次には判らなかつた。房一は又自転車にのつた。
「さうですか、さうですか。それは、いや、ごていねいなことで」
房一はすかさずさう口にすると、低く鹿爪しかつめらしいお辞儀をした。どうも、これでは少し固苦しいかな、と自分の声を自分で聞きながら。彼はいくらか汗ばんでいるやうな気がした。慌あわてないで、さう自分に云つた。
宿の者はこういっただけで、その以上の説明を加えなかった。伊助の報告もそれで終った。
半シャツの男が進み出た。
しかし、いづれにしても、房一がかういふ率直な頼み方に出たことは練吉の気をよくした。彼は熱心に診た。この結果が房一の診断と大差なかつたにもせよ、たゞそれだけでほつとした面持になつた房一を見ると、練吉は何かしらいゝことをしたやうな気にもなつた。軽蔑とまではいかないが、たとへ心ひそかに房一を医者として自分と同列に考へなかつたとは云へ、そして、肉親を診る時に心が乱れて困るといふ房一の打明けををかしがりはしていたものの、この房一の隠すところのない当惑の様子、その正直さは、知らず知らず練吉を同化させるやうなものを持つていた。
房一は目を上げて何か訊きたさうにした。それを押へるやうに、
これらの、過去一年あまりの中に或ひはひよつこりとした凸起をなし、或ひはまはりをぼかしたまゝ遠のいているさまざまな出来事のうちで、たつた一つのことが抜け出し、それは一向に過ぎたことにならないで依然としてつゞき、絶えず現在として変化し、房一に或る影響と関心を与へているものがあつた。たつた一つ――それは盛子の妊娠であつた。
小谷は房一に話しかけた。
三十分もたつた頃、自動車は角屋の表で停つた。そこは国道が河原町に入らうとする曲り角で、角屋は国道に沿ひ、裏は河に臨んだ旅館である。責任者としての房一と神原喜作がそこにやつて来た時には、署長はまだ加藤巡査の報告を受けている最中だつた。若し房一達の来るのがもう少し遅れたら、加藤巡査の報告もあやふやになり、署長はじめを現場へ案内せざるを得ない破目はめにもなつただらう。そして、事は出張所の消防演習を火事と誤認して人だかりがしたのに過ぎず、事実が判明するにつれて漸次分散して行つた、といふことに落ちついた。全く一時は成行を憂慮された事態も、落着してしまへば、事実その通りにちがひなかつたのである。
その時、突然練吉は、房一がさう云ひかけたまゝ当惑した表情になつたのを見た。